Table Of Content44 植物研究雑誌第81巻第1号 平成18年2月
リンネが学位を取得したヘルダーラント大学(大場秀章)
Hideaki OHBA: Gelderland University of Harderwijk and Linnaeus
リンネの生涯はふつう 6期に区分される はそれに8000ギルダーの補助金を出すことを
(Stearn 1957)が,彼の生物・医学者として 決定した.こうしてできたのがヘルダーラン
の生涯を決定するうえで最も重要だったと見 ト大学 (DeGelderse Academie,英語名は The
倣されているのは,大半がオランダにあった Gelderland Academy)であった.
その第3期 (1735年から1738年)である.オ 公式の開学は1648年4月12日で,当日は教
ランダ滞在の当初の目的は医学博士の学位を 会での礼拝,荘厳な行進と晩餐会を含む式典
取得することであったが,実際にはそればか が執り行われた. しかし関学時の教授はわず
りでなく学位取得前後に幾多の知己を得てオ か8名という,当時としても最小規模の大学
ランダに留まり,主として植物学の研鎖に励 だった. 1年後に大学に植物園 (Hortus
むのだった (Boerman1979).リンネが学位を Botanicus)が開設され,医学教育が加わった.
取得したのはハルダーウイツク (Harderwijk) ヘルダーラント大学はこうして順調にスター
にあったヘルダーラント大学である.彼はそ トを切ったかに思われたが,その後幾多の問
こでわずか 1週間で学位を取得した.なぜリ 題に直面することになる.まず,ヘルダーラ
ンネはこの大学で学位を取得しようとしたの ント州の 1地区であるナイメヘンは分担金の
か,また現在の日本の制度からみるとあまり 支払いを拒否したばかりか,同様の格上げに
にも短期の学位取得にはなにか特別の理由が よってナイメヘンにも大学を創ってしまった.
あるのか気になるところである.そこでかつ 当時のオランダではヘルダーラント州だけが
てこの大学があったハルダーウイツクを訪ね, 独立性の高い3つのもの地区からなっていた.
いまはないその大学についての見聞を収集し こうした地区間の対立はこと大学の問題だけ
てみた.また当時の学位取得についても調べ に限らなかった.
てみた. ハルダーウイツクは人口わずか3500人ほど
に過ぎなかったので,大学に集まってきた学
ハルダーウィック 生が市民に様々な不安や危害を含め影響を及
海を埋め立てて陸地を広げたといわれるオ ぼした.オランダの制海権をめぐる第 3次蘭
ランダだが,そうした干拓の中でもとくに著 英戦争が勃発した1672年は 蘭仏戦争も加わ
名なのはゾイデル海の干拓である.同海がワツ るなど,社会は大混乱に直面し,多くの教授
デン海と接する辺りのオスターラント と学生が大学を去った.図書は安全裡にアム
(Os terland) とハーリンゲン (Harlingen) 聞 ステルダムの北に位置する北オランダのホー
に堰堤を築くことでゾイデル海は湖水化しア ンに疎開させることができたが,地区からの
イセル湖となった.まだ干拓が始められる以 補助金は途絶え,教授の欠員補充ができない
前の海岸線はアムステルダムの東に位置する まま, 1675年に大学は閉鎖を余儀なくされた.
交通の要所,アメルスフォールト (Amers- オランダとフランス,長じてはフランスと
fort) からズボレ (Zwolle) に沿って弓状に 神聖ローマ帝国との聞の戦争がナイメヘンの
続いていた.ヘルダーラント(Gelderland) 和約をもって 1678・79年に解決する.時代
州に属するハルダーウイツクは,ちょうどそ は絶対王権の確立による繁栄へと向うが,
の両市の中間に位置し,中世以来交易を通じ 1681年にヘルダーラント州の 3地区のひとつ
て発達した港町で, 1230年にはハンザ同盟に であるウルウェ (Veluwe) が分担金の支払
加っている. いを再開したのを皮切りに 1692年にヘルダー
1647年7月1日にヘルダーラント州政府は, ラント大学の閉鎖が解かれたのである.
ハルダーウイツクの,大学に準じた上級の教 1648年の創設から1811年の閉鎖までの163
育制度をもっ一種のラテン語学校を大学に格 年間におよそ4000人がこの大学の学位申請者
上げする決定を下し ハルダーウイツク地区 名簿に登録した.ここで学位を得た著名な人
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物の中には医者・植物学者として名高いブー のスウェーデン人がヘルダーラント大学で学
ルハーフェ (HermanBoerhaave, 1693年取得) 位を取得していた.また,学友のために催す
がいるが,なんといっても最大の著名人はリ 祝宴経費を払う必要がないなど,経費もあま
ンネである. りかからなかったことも大方の留学生にとっ
リンネに触れる前にその後の大学史を簡単 ては魅力のひとつであったろう.
に記しておく.時代はナポレンオンが活躍す 外国ばかりではなく,オランダの他大学に
る1793年,すなわちフランス共和国2年にフ 籍をおく学生もここで学位を取得することが
ランスはオランダに宣戦する.これによりオ あったといわれている.先に書いた学生名簿
ランダは再び国情不安定となり社会混乱に陥 Album Studiosorumには7000人の名前が見出
るが, 1795年には一種の共和国革命が起き, せるが, Album Promotorumすなわち学位申
国名をパタヴイア共和国と改名した. 請者名簿にも4000人が登録している.このこ
この革命によりヘルダーラント大学はヘル とはかなりの数の学生がここで学位を取得し
ダーラント州からの財政的支援を失った.そ ていたことを示している.
うした中で1798年には創立150年を迎えたが, リンネが1週間で学位を手にしたと書くと,
州政府からはー慮だにされなかったらしい. 教授陣の質も問題にされそうであるが,当時
一方,ナポレオンは大学にたいしては好意的 の大学としてヘルダーラント大学が格段レベ
であったといわれている.だが,フランスの ルが低かったということはなく,後述のよう
オランダ併合に関連したオランダの教育に関 にリンネの時代も著名な教授がいた.
する調査で,ヘルダーラント大学は好意的に
評価されたにもかかわらず 1811年10月22日 リンネの学位取得
に閉鎖されたのである. リンネは1735年6月2日(当時の暦法によ
る.新暦法では 6月 13日)に船でアムステ
ヘルダーラント大学の学位方式 ルダムに着いている.この頃スエーデンから
リンネの時代のオランダ(オランダ連合) オランダへの直行便はなかった. 1735年4月
は7つの半ば独立した州 (state,以下地方と 26日に,この時代普通に行われていたように
いうこともある)からなっていた.ゼーラン ヘルシンボリから北ドイツのリューベック湾
ドを除く全州に大学があった.最も古いのが 口のトラヴェミュンデに船で着き,そこから
1572年に創設されたホラント州のライデン大 陸路をリューベックを経てハンブルクへと向
学である.なおライデン大学はホラント州だ かった. 5月17日(新暦法では 5月28日)に
けでなくゼーランド州も関係を有していた. ハンブルクのアルトナから船でゾイデル海を
ヘルダーラント大学は,神学部,法学部, 通ってアムステルダムに向かったのだった.
文学・哲学部,後に加わった医学部を合わせ, およそ半月の航海であるが,これは当時とし
4学部からなる,小さな大学だ、ったが,教授 ては速かった方だといわれている.
陣がそれなり充実していたといわれている. アムステルダムに着いて数日後の 6月6日
リンネがヘルダーラント大学で学位を取得 (新, 6月17日)午前3時にリンネはハルダー
しようと考えた大きな理由は,在学しなくと ウイツクに到着した.自ら大学に赴き学生登
も申請すれば学位試験を受けることができた 録を行った (AlbumStudiosorum,すなわち
ことにある.わかり易くいえば課程博士だけ 学生名簿に記入した).翌日,学士試験(学
でなく,日本でいう論文博士の制度も併せもっ 位候補者試験)にパスした.そして19日(以
ていたのである.在学せずに学位を取得でき 降は新暦にて記す)にヨハン・デ・ホルター
る制度は,職についていない外国の若者にとっ (Johan de Gorter) に自分が以前書いた論文
て,取得学位をもって迅速に帰国できるため, を見せ,ホルターから学位論文印刷の指示
職を得る上で有利だったといわれる (fiat)を得た.次の日は口述発表と植物の実
(Veendorp and Baas Becking 1938). ウプサラ 地試験を受け,午後は地元の印刷屋 H.J.
大学でのリンネのライバルであった Nils Rampenに行き論文を印刷した.23日に24ペー
Rosenや父の友人の JohanRothmanなど多く ジの論文,Hypothesis nova de j訟briuminter-
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mittentium causαにもとづいて,公式の試験 環の理論は自然の機械論的な説明の典型とさ
(promotion) を受けた. Stafleu (1971) は試 れ,自然史に対しでも理論的要素の導入を求
験はまったく形式的なものだったという めたのである.
Boerman (1957)の見方を引用している.そ この風潮を変えたのは,デカルト主義の偉
してお日にはそこからアムステルダムに戻っ 大なる反対者であるニュートンの経験主義で
たのである. ある. 18世紀にはライデン大学では実証性
さてリンネがホルターの名前で印刷した論 を重んじる生理学や解剖学などを基礎に据え
文 (dissertatio) Hypothesis nova de jきbrium た教育が行なわれ 医学,植物学,化学の教
intermittentium causaは和訳するなら,“間欠 授であり,学長でもあったブールハーフェは
熱の原因についての新仮説ぺと題するもの そうした教育の中心人物となっていた
である.後にリンネの学生は disertatioとし (BerkelI985) .ホルターの師であるブールハー
てリンネの研究論文を出版しているが,リン フェはライデンで神学と哲学を学んだ後,ヘ
ネ自身の学位論文は,その内容からリンネが ルダーラント大学で学位を取得している.彼
執筆したことが明らかである.ちなみに は医学の分野では解剖劇場 (Theatrum
Garnham (1978)はその英訳を行っている. anatomicum) を通じて広く知られているが,
ヘルダーラント大学の学位はどの程度に評 1724年に熱の正体をカロッリク(熱素)と呼
価されていたのだろうか.ライデン大学ほど ぶ,重さのない元素とする説を唱えたことで
ではないにしても 過去にブールハーフェの も有名である.またライデン大学植物園で栽
ような大物がここで学位を得ていることもあ 培される植物を分類・記述した lndex
り,オランダでの評価はそう悪いものではな Plantαrum,q uae in Horto Academico Lugduno-
く,リンネも学位取得を喜んだといわれてい Batavo reperiuntur (1710年), Historia
る (Stafleu1971). なお, リンネは1728年9 Plantarum,q uae in Horto Academico Lugduni
月にルンドの大学からウプサラに移り,ルドッ Batavorum crescunt (1720・27年)を著すなど,
ベク (OlofRudbeck the Yo unger) に指導を 植物分類学の発展にも貢献した.リンネが学
受けるが,その助手だったのが先に述べた 位を取得した1735年には, 1668年生まれのブー
Nils Rosenだった.彼は1730年9月にヘルダー ルハーフェは67歳になっていたが,リンネの
ラント大学で学位を取得し, 1732年帰国した. 分類学者としての前途に多大な影響を与えた.
これによりリン不はデモンストレーターとし しかし病臥中であった彼は 3年後の1738年に
ての職を失うことになったが,そのことがリ 没した.
ンネにラプランド探検を決心させる契機となっ ホルターは当時としては最先端の医学教育
た. ができる人物だったといってよい.ホルター
は親子してヘルダーラント大学で医学を教え
Gorter親子 ていた. リンネが論文を提出したのは父の
ホルター教授はライデン大学でブールハー Joh annes de (あるいは Janvan) Gorter (1689-
フェに学んだ逸材で, 1725年にヘルダーラン 1762)である.しかし, 1754年に女帝エリザ
ト大学の医学・植物学教授として赴任した. ヴェータ・ペトロヴァナの侍医としてロシア
プロテスタントの町,ライデンの当時の大 に招聴され,医学・植物学の教授となった子
学は,最初アリストテレス派の哲学の影響下 のDavidde Gorter (1717-1783)とともに大学
にあったが, 17世紀前半に,数学的(幾何学) を去るが, 4年後には再びオランダに戻った
ならびに自然学(機械論)的性質によって自 (Bots en M. Evers 1998). 父の著作として
然現象が説明できると主張した,ブルターニュ Exercilationes medicae quatuor (1737年,アム
生まれで一時期オランダに定住した哲学者デ ステルダム)がPritzel(18 72)の3479として
カルトの科学思想の影響を強く受けることに 掲載されている.子の Davidはリンネの
なった.デカルトの影響は生物学や医学の分 Elementa botanicaを解説した Elementα
野にも及んだ. とくにイギリスの医学者・生 botanica methodo cl. Linnaei accommodata
理学者ハーヴイ (WilliamHarvey)の血液循 atque in usumαuditorum evulgataを1749年に
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ハルダーウイツクで出版している.Davidは Moraeaに会った.彼女の父Johannesはライ
また後年,オランダ,ベルギーの植物相を研 デンとパリで勉学し学位を取得していた.
究し,いくつか著作を残している. Sara Lisaはその時18歳であったが, リンネ
は彼女の父との聞に,向こう 3年以内にオラ
学位取得後のリンネ ンダで学位を取得して帰国した後に彼女と結
リンネは学位を授与された後, 25日にアム 婚するという約束をした.学位取得を急いだ
ステルダムに戻った.28日にはユトレヒトを のもそのためといわれている.性急な学位取
訪ねたが印象もないままにそこを去り,ライ 得はこうした事情によるものであるが,リン
デンに赴いた.ライデンではブールハーフェ ネはこの 3年の聞にオランダの著名な植物学
とグロノヴイウス (JohanFrederik Gronovius) 者のもとでさらなる研鎖を積み,また著名な
を訪ねた.リンネは著名な 2人の学者に深い 学者との面識を深め将来に備えようと考えて
感銘を与えたといわれている. リンネは いたものと思われる.
Systema naturaeの草稿を Gronoviusにみせた. オランダ滞在中にリンネは南米のスリナム
感銘を受けた Gronoviusは ただちに友人の や他のオランダの植民地への探検調査に誘わ
Isaac Lawsonとともに経費を出し,それをラ れるがそれを断っている.リンネは SaraLisa
イデンで出版させた.ブールハーフェはアム とは婚約期限が過ぎ,彼女が婚約に拘束され
ステルダムのブルマン (JohannesBurman) ない状態になるのを恐れていた (Goerke
にリンネを紹介した. 1989).事実,色々な言動からしてリンネは
実はハルダーウイツクに向かう前のアムス
テルダム到着後の6月4日(旧)にリンネは
ブルマン教授を訪ねている. しかしこのとき
は挨拶以上のものは得られなかったといわれ
ている.ブールハーフェの紹介状をもってア
ムステルダムに戻ったリンネはさっそくブル
マン教授を訪ねた.今度は好意をもってリン
ネは迎えられただけでなく,教授のもとに滞
在し,生活の面倒さえみてもらえた.さらに,
Bibliotheca botanicaとFundamentabotanica
の両書をブルマンの支援でアムステルダムで
出版することができた.
こうしてリンネはブールハーフェを介して
アムステルダムとライデンの2つの学者グルー
プの支援を受けることができたが,さらにブー
ルハーフェはf皮のクライアントのひとりで,
アムステルダムの裕福な銀行家である
George Cliffort (16 81-1760 )にリンネを侍医
として雇い,ハルテカンプの邸宅で彼に研究
の機会を与えるよう進言した.このことが後
のリンネにとっていかに重要であったかはす
でに書いた(大場 2005).
リンネが学位取得を急いだ事情
リンネが学位取得を急いだ理由は SaraLisa
との結婚のためだといわれている.リンネは
1734年のクリスマス時に,裕福な町医者 図1. 大学の中心となっていた尖塔をもっ教会
Johannes Moraeusの娘の SaraElisabeth (Lisa) 式の建物.
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図2. 大学門 (Academiepoortje). de Jong 図3. 大学門の横にあるリンネ塔(かつては大
(1998)による. 学塔といった).紅色の強い煉瓦造りで,中
ほどにリンネの胸像が設置されていた.左側
に大学門の上部が見える.
1737年に Hortuscliffortianusが印刷に廻され
ると,急、に帰国を急いだように見受けられる. るアメルスフォルトに着く.ハルダーウイツ
しかし, 1738年のイースターの頃,リンネは クはそこからしばらくの距離である.鉄道で
一種の病原菌による高熱を病み,約2ヶ月も もいけるが,道路交通網も発達しており,車
ハルテカンプでの静養を余儀なくされた.こ での訪問にも便利である.
のときリンネを治療したのは,後にマリア・ ハルダーウイツクは典型的な地方都市で旧
テレジアの侍医となる Gerhardvan Swieten 市街を取り囲むように発展した新市街をもっ
である.帰国を焦るリンネはせっかくのパリ ている.旧市街の目抜き通りには商庄が櫛歯
滞在も 2ヶ月足らずで,ルーアンから帰国の し賑やかだった.ヘルダーラント大学創設
途に着く. 1738年9月にスウェーデンに無事 400年を迎えた1998年に同大学の足跡、などを探
に帰国したリンネは, 1739年9月に SaraLisa る調査が行われ,史跡が整備された.そのときに
と結婚した. ホームページ (http://www.snama.nl/univhwijk/
UnivOfHarderwijk加 nl)が開設された.
ヘルダーラント大学の足跡を訪ねる 大学があったのは旧市街の北東の外れであ
2005年 3月24日 ハルダーウイツクにヘ る.大学の中心となっていた建物は尖塔をも
ルダーラント大学の跡を訪ねてみた.アムス っ教会式の建物である(図 1).建物は暗紅
テルダムから北のフロニンゲンに向かつて鉄 褐色の煉瓦造りで,身廊 (nave)はやや急な
道で進むと,ユトレヒト方面への分岐点とな 傾斜の屋根をもっ建物である.教会建築とし
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図5. かつての植物園の一角にあるイチョウ.
この植物園での栽培植物については1709年に
図4. 1863年頃描かれた大学門の図. 2階建て Westenbergが著した Viridarii academiae
の回廊があり,門はその一部であった. harderovici catalogusがあり,後の Gorter親
子の時代に至るまで医学・植物学の実地教育
に活用されていた.リンネも見学したと思わ
れる.
ては異様で,左右とも側廊 (aisle) を欠いて
いる.この建物に続いて 2階建ての教室風の
建物があるが,入り口の部分に MDCCLIV リンネ塔(かつては大学塔といった)がある
(1754年)の文字を認めることができる.こ (図 3).紅色の強い煉瓦造りで,中ほどにリ
の年がこの建物の建設年を表すのであれば, ンネの胸像が安置されていた.この胸像はク
リンネがここで学位を取得した1735年以降の リフオート邸跡にあったものと同じ母型から
建築ということになる.北側には 6角形の搭 作られたものであろう.胸像のある面の右側
状の建造物が続く.採光性にすぐれたその建 の面にリンネについてのオランダ語による解
物は講義などに用いられていたものか. 説板,その下方にはブールハーフェのレリー
教会様式の建物と道路を隔てて西側に フ付きの顕彰碑文が按め込まれている.
Hortus Botanicus すなわち植物園があった. 現在の大学門は植物園への単なる出入り口
現在,復元されているが,栽培されている植 に過ぎないが, 1863年頃描かれた図(図 4)
物の選択はリンネ当時のものではない.この から,そこには 2階建ての回廊があり,門は
植物園はリンネ塔と呼ぶ塔の背後にある保護 その一部であったと考えられる.
された一角を占める.道路に面して大学門 植物園については, 1709年に Emesti
(Academiepoortje) (図 2)があり,その横に Wilhelmi Westenbergiiが著した Viridarii
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図6. イチョウの西側にあるかつての解剖学教
場の建物の一部.現在は子供たちのための自
然・環境教育施設となっている.
αcademiae harderovici catalogusがあり,後の
Gorter親子の時代に至るまで医学・植物学の
実地教育に活用されていた.古くからここに
ある樹木としてイチョウとプラタヌスがある.
プラタヌスは幹の上部が切り取られていて,
萌芽枝が叢生していた.イチョウは直立した
幹をもち,ヨーロッパのいくつかの大学植物
園にみられる雌雄株を接木したような形跡は
ない. 図7. リンネの学位論文の表紙.
イチョウはリンネによって 1771年に
Mantissa plantarum alteraで学界に紹介され
たが,そのもとになったのはケンプファーの
『廻国奇観』の図と記述で,リンネ自身がこ ハルダーウイツク市にとってリンネは史上
こでイチョウをみたとは考えられない.リン 最も重要な意味をもっ人物として扱われてい
ネ以降に栽植されたものである.そのイチョ るといってよい.残存する遺物は少ないとは
ウのさらに西側にかつての解剖学教場だった いえ,機会があれば一度は訪問されることを
建物があり,現在は子供たちのための自然・ お勧めしたい.
環境教育施設となっている(図 5,6).
このように僅かな建物や遺構からかつての 引用文献
ヘルダーラント大学の片鱗を知ることができ Berkel K. van 1985. In het voetspoor van Stevin.
Geschiedenis van de natuurwetenschap in neder-
る.大学跡からは離れてはいるが, Stads-
land 1580-1940. Boom Meppel,A msterdam.
museum Harderw討kあるいは VoorheenVeluws
(K. ファン・ベルケル著,塚原東吾訳, 2000,
Museumと呼ぶ,州立博物館があり,地階の オランダ科学史.朝倉書庖)
半分近くをヘルダーラント大学の展示に当て Boerman A. J. 1957. Linnaeus becomes candidatus
ていた.リンネが学位審査を受けた当時の, medicinae at Harderwijk. Svenska LinnふSallska-
上下に座をもっ討論壇,ホルターの肖像画, pets Arsskrift 39/40: 33-47.
1979. Linnaeus and the scientific relations be-
リンネの学位論文(表紙,図7)などをここ
tween Holland and Sweden. Svenska Linne-Salls-
で見ることができる.
kapets Arsskrift 1978: 43-56.
February 2006 Joumal of Japanese Botany Vol. 81 No. 1 51
Bots en M. Evers J. A. H. 1998. De Gelderse De Harderwijk Reeks,H arderwijk.
Academie in het universitaire landschap van de 大場秀章.2005. リンネゆかりの旧 Clifford邸を
Republiek. In: Mulder en Willem Frijho百 van 訪ねる.植物研究雑誌 80: 315-321.
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jaar Gelderse Academie in Harderwijk,4 3-59. De ed. novam reformatam. F. A. Brockhaus,Li psiae.
Harderwijk Reeks,H arderwijk. Stafleu F. A. 1971. Linnaeus and the Linnaeans. The
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Like (edよ EenOnderschatte Universiteit-350 kers. De Graaf Publishers,N ieuwkoop. http://
jaar Gelderse Academie in Harderw討k,136-156. www.snama.nl/uni vhwijk/Un ivOfHarderwijk.htm .l
Heinai SHIBUICHla and Syo KUROKAWAb Materials for the Distribution of Lichens in
:
Japan (14)
地衣類分布資料 (14) (四分一平内 ,黒川 進b)
a
Cladonia trassii Ahti S. Kurokawa 56184. Prov. Rikuzen: Mt. Zao,S. Murai
In TNS,a few specimens annotated as s. n. Prov. Uzen: Mt. Hiuchidake,M . Togahshi 5089,
5093. Prov. Etchu: Mt. Kaminotake,Y . Asahina s. n.
Cladonia trassii Ahti (Fig. 1) by Ahti are
(3 packets). Prov. Shinano: Mt. Shirouma,Y . Asahina.
preserved. Cladonia trassii was described by
Prov. Mikawa: Mt. Horaりi,Y. Asahina s. n.. Shikoku.
Ahti (1998) from Sweden and was reported Prov. Awa: Kamigame-cho,T. Inobe 350,3 54.
also from Russia,A laska,C anada,G reenland
and Tierra del Fuego in South America. Literature cited
Morphologically it resembles C. stricta,a n Ahti T. 1998. A revision of Cladonia stricta. Fol.
arctic species,f rom which it is distinguished Cryptog. Estonica 32: 5-8.
by the presence of narrowly scyphose termi- Asahina Y. 1950. Lichens of Japan 1. Genus Cladonia.
nal branchlets of the podetia,as suggested by 255 pp.,1 8 plates. Hirokawa,T okyo.
Ahti (1998). It should be noted here that 一一一 1971.Atlas of Japanese Cladoniae. 27 plates.
Res. Inst. Natural Resources,T okyo.
most specimens reported as C. lepidota f.
cerasphora by Asahina (1950, 1971) are Cladonia trassii (ミヤママダラゴケ,新称)は
identical with the present species. In Japan, スエーデンから記載され,ロシア,アラスカ,カ
C. trassii is rather common in the subalpine ナダ,グリーンランドおよび南米のテイエラデル
フェゴからも知られている.子柄の髄層が黒変す
coniferous forests in Hokkaido and Honshu,
るため,黒い斑点が子柄側面で明らかに観察され
extending the range south to Prov. Awa in
る点で,北半球の極地に分布する仁 strictaに似
Shikoku. All specimens cited below are pre- ているが,子柄の最先端の分枝が狭い盃を作るの
served in TNS. でそれと区別される.朝比奈泰彦氏が仁 lepidota
Specimens examined: JAPAN. Hokkaido. Prov. f. cerasptoraとした大部分の標本は本種と同定さ
Ishikari: Mt. Chubetsu,S . Kurokawa 72010,7 2011; れ,日本では北海道から四固まで分布している.
the same,H . Koidzumi 71989; Mt. Tomuraushi,H .
Shibuichi 9585. Honshu. Prov. Mutsu: Mt. Kamabuse,